Story
つい先日青鰻という名に出会ってからというもの、その面影が脳裏を離れぬ。あのほのかに青みがかった艶、ふっくらとした身の厚み、そして脂の滴るような旨味。その記憶が、まるで借金取りのように日々の思索を妨げる。これでは精神衛生に悪い。そうして我輩は再び、小台にある「鰻のあらかわ屋」へと足を運ぶことと相成った。
さて、今回もまた、青鰻にありつけるか否か、道中は希望と懐疑の交錯である。道を歩く人々の顔つきからも、日々のマスク疲れと物価高に疲弊する庶民の影が見て取れる。スーパーの棚に並ぶ鰻蒲焼きが、かつては780円だったものが今や1280円とは、鰻の世界もインフレと無縁ではおれぬらしい。
しかし、あらかわ屋は違った。天然の青鰻、それも大サイズが入荷しているというのだ。しかも価格は一万円と消費税。これは下町価格どころか、現代の奇跡と申しても過言ではあるまい。そもそも幻の青鰻が庶民の手の届く範囲で出回ることなど、戦前の紙芝居で三等兵が将軍になるくらいの話だ。
注文を告げ、待ち時間に小さな徳利を一本。あてには奴豆腐。これである。洒脱で控えめな酒席を整えるこの選択は、己を律する文明人のたしなみと言える。いまどきの「飲み放題制」なるものは、己の欲望に無制限で水を注ぐようなもので、文明とは逆方向に進む制度だと我輩は睨んでいる。
徳利を傾けながら、ふと思い出すのは児島湾の話である。あの湾の青鰻はアナジャコなる甲殻類を主食とするという。どうもそのシャコの成分が鰻の皮膚に染み込み、あの神秘的な青を生むのだとか。シャコを喰らって青くなるとは、どこか人間社会にも通ずるような。SNSというアナシャコを貪り食った結果、現代人の思考も随分青臭くなった気がするのは、我輩だけであろうか。
そんな与太話を脳内で繰り広げていると、ついにそれは来た。重箱の蓋を開けると、まるで仏のような顔をした青鰻が、白米の上に鎮座しておる。まずは腹の部分を一口。ふわりと口の中でほどける身。脂の香が鼻腔を抜け、しかし決してくどくない。天然の品格、という言葉がこれほど似合う素材が他にあるだろうか。養殖の鰻がファーストクラスならば、この青鰻はさながら宮中晩餐会のような趣きである。
米と共にゆっくりと味わう。この「ゆっくり」が大事なのである。昨今の世の中、すべてが速すぎる。高速回線に秒速再生。ニュースは10秒で要点、恋愛もスワイプ一発。せめて食事くらいは、ゆっくり時間をかけて味わいたいではないか。味覚というのは、焦っては何も感じられぬものなのだ。
吸い物を啜る。肝の弾力は見事なまでの張り。口の中で「俺はここにいるぞ」と主張してくる。しかもそれが押し付けがましくない。現代のSNSインフルエンサーに爪の垢を煎じて飲ませたいほどである。
ふと気がつけば、額に汗が滲んでいる。冷房の効いた店内であるにもかかわらず、まるで夏の太陽のような熱が内側から湧き上がってくる。鰻の力、侮るべからず。栄養学者に言わせれば何とか酸やビタミンEの仕業であろうが、我輩に言わせればこれは「鰻道」である。つまり、鰻を正しく食べ、正しく感動し、正しく汗をかくという、一種の修行なのである。
今の時期、天然物は脂がまだ乗り切らないという話を聞いたが、それが何のことやら。いやはや、これほど豊満な脂をもつ青鰻が、まだ成長途中だというなら、秋には一体どうなってしまうのか。これはもう、また来ねばなるまい。財布と相談しながらではあるが、天然物との出会いには即断即決。これを我が教訓として、次なる鰻行脚に備える所存である。
店舗紹介
鰻のあらかわ屋(荒川区西尾久・小台)
食べログ:
https://tabelog.com/tokyo/A1323/A132303/13227965/
コメントを投稿するにはログインしてください。