Story
いやはや、まことに恐れ入谷の鬼子母神とはよく言ったもので、現代ではその「恐れ入り」具合が、マイナンバーカードと健康保険証を無理やり一体化させるごとき行政の無粋さにも通ずるような気がしてならない。だがこの日ばかりは、そんな世相の煩わしさも、すべて鰻の香ばしき煙と共に吹き飛んだのである。
舞台は入谷――江戸の風情が色濃く残るこの界隈に、「のだや」なる小体な鰻屋がぽつんと佇んでいる。知らぬ人は通り過ぎるであろう。されど知る人ぞ知る。そこは鰻の聖地にして、共水鰻を供する鰻職人登竜門の如き存在である。
暖簾をくぐると、わたくしはすぐに案内された。予約など不要、いやむしろ野暮というものだ。良い鰻は、良い書物と同じく、一期一会の妙にていただくべきだろう。案内されたカウンター席。眼前には職人が凛と佇み、黙々と鰻を焼いておる。今どきはSNSのライブ配信とやらで厨房の様子を垂れ流す者も多いが、ここにはそんな喧噪は皆無。あるのは、炭と火と、真剣な眼差しのみ。
さて、共水鰻である。大井川の伏流水にて育まれたこの鰻、わたくしが某新聞社の連載原稿を前にうなっていた頃には、影も形もなかった名鰻である。養殖なれど、天然に匹敵――いや、ある意味ではそれ以上。清水の如く澄んだ脂が舌の上で蕩け、濃口のタレと見事に調和する様は、まるで三味線の三の糸が奏でる江戸の調べのよう。
出てきた鰻重は、万遍返しという技法により、蒲焼のすべての面が均等に火入れされ、黄金色の艶を帯びている。これを美と呼ばずして何を美というのか。皮は香ばしく、身はふわりとほどける。現代の政治家のように外柔内剛ならぬ、外硬中空のような虚ろな人物とは大違いである。
タレは控えめながらも奥行き深し。甘さよりも辛さが勝り、後から追いかけてくる旨味の波状攻撃。噛み締めるたび、鰻そのものの香りと味わいが浮かび上がってくる。現代人が好むような、濃すぎる味付けに頼らぬ潔さ。ここに「のだや」の矜持を見た気がした。
それにしても、今の世の中、食にまでアルゴリズムが口を出す時代となり、AIが「あなたにおすすめの夕食は鶏むね肉です」などと申すのだから、我々が顔をしかめるのも無理はあるまい。だが、鰻の味だけはAIにも計算できまい。共水鰻の脂が舌に残す余韻は、理屈や数値で表せるものではないのだから。
食後は一服しながら、壁に並ぶ著名人のサインを眺めた。誰もがこの味に惹かれてきたのであろう。しばらく目を凝らしてみたが、「漱石」はさすがに見当たらなかった。
のだやを出ると、入谷の風がそっと頬を撫でた。その風の中に、共水鰻の残り香がふと混じる気がしたのは、果たして気のせいであったろうか。
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