Story
築地という街は、魚河岸の喧騒とグルメなる言葉が表裏一体を成す、いわば胃袋と財布の綱引き場である。その混沌とした路地を抜けた先、文明開化の残り香を今に伝える一軒の老舗がある。「宮川本廛」なる名を掲げし鰻屋である。
この店、創業は江戸末期、深川の地に根を下ろした初代宮川善右衛門の流れを汲むという。明治の終わりには既に名店として知られ、文明の利器であるスマートフォンがなければ落ち着かぬ現代人にとって、この静けさはまるでタイムスリップである。外国人観光客の大声も、SNSの「映え」も、ここには一切関与しない。まさに、鰻に向き合うだけの時間と空間が、堂々と用意されている。
さて、注文に際しては、「うな丼」と「うな重」という永遠の二択に出くわすのだが、我輩は迷わず「重」の方を所望した。理由は単純、蓋を開けるという所作に、些かの文学性を感じるからである。丼に蒸気を閉じ込めるのも粋だが、重箱の方が格式がある。これはまるで、新聞小説と単行本との違いのようなものである。
席に着くや否や、「宮川」と銘打たれた純米酒をぬる燗で所望し、ちびちびとやりながら床の間の掛け軸を眺める。室内は落ち着いた照明で、余計な装飾もなく、ただ「食」と向き合えという無言の教えがそこにある。他の客の会話も、現代語というより、どこか江戸弁に近い調子で心地よく耳に届く。スマホの通知音が聞こえないだけでも、ここがいかに特異な場所か分かるというものだ。
酒が心地よく胃をほぐした頃、例の重箱が厳かに運ばれてくる。蓋を取れば、蒸されて照りを増した鰻が姿を現す。これが、明治以降、醤油とみりんのみで継ぎ足され続けたというタレに絡まり、まさに「伝統」とはこのようにして舌に残るものかと、しみじみ思い知らされる。甘さ控えめ、だが深みあり。派手さはなくとも確固たる自己主張を持つタレ、それに寄り添うご飯の炊き加減も申し分ない。これが俗に言う「江戸の粋」なのであろう。
さらに特筆すべきは、接客である。若すぎもせず、妙齢を迎えた女性が、しとやかに、しかして親しみを込めて客に応じる姿は、まるで山の手夫人の如く、老舗にふさわしい気品を漂わせていた。流行りの無機質なタブレット注文では味わえぬ、この人の温もりこそ、鰻の味を倍加せしめる隠し味であろう。
このような名店が、築地という再開発に振り回される町の片隅で、静かにその味を守っているというのは、実に心強い限りである。何でもかんでも再開発の名のもとにコンクリート詰めにされてしまう昨今、古き良きものを守るという行為こそ、最も新しい挑戦なのではあるまいか。
――ともあれ、酒も鰻も心地よく腹に収まり、己の背筋が少しだけ伸びたような気がするのは、きっとこの店の持つ力であろう。
最後にひと言。我輩は思うのだが、デジタル決済の便利さも結構だが、財布の中に現金を忍ばせ、暖簾をくぐる喜びというものも、まだまだ捨てたものではない。宮川本廛に行くときは、Suicaよりも小銭を磨いておくのが、粋というものだ。
店舗紹介
創業130年超の伝統が薫る、築地のうなぎの名門
明治26年(1893年)、深川の鰻屋「宮川」の暖簾を受け継ぎ、築地の地に創業したのが「宮川本廛(ほんてん)」です。その歴史は130年近くにおよび、江戸から明治、大正、昭和、平成、そして令和と、日本の激動の時代を経てもなお、その味と精神は揺らぐことなく継がれてきました。
特徴
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老舗の誇りが詰まった「鰻重」
長年継ぎ足し続けられたタレは、甘さを抑えつつも、醤油の深いコクが際立ちます。蒸しと焼きの絶妙なバランスで仕上げられた鰻は、ふっくらと柔らかく、皮目は香ばしく、余分な脂は抜かれて軽やか。うなぎの旨みを最大限に引き出しています。 -
うな丼か、うな重か…選ぶ愉しみ
一般的には「うな丼」は庶民的、「うな重」は格式ある印象ですが、宮川本廛ではどちらもきちんとした器で提供されます。お好みに応じて選べるのも嬉しいところ。 -
ぬる燗とともに嗜む、大人の時間
「宮川」の名を冠する純米酒とともに楽しむ鰻重は格別。落ち着いた和の空間で、日本酒をちびりと傾けながら、静かに箸を進める幸せをぜひ味わってみてください。 -
居心地の良い空間と、丁寧な接客
店内は格式張りすぎず、それでいて凛とした空気が流れています。接客も穏やかで、特に同世代の女性スタッフの心配りは老舗ならではの安心感があります。
店舗情報
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住所:東京都中央区築地1-4-6 宮川本廛ビル
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アクセス:東京メトロ「築地駅」徒歩2分、「東銀座駅」からも徒歩圏内
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営業時間:
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昼:11:30~14:00(L.O.)
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夜:17:00~20:00(L.O.)
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定休日:日曜・祝日
メニューの一例(税込)
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鰻丼(竹)3,200円〜
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鰻重(松)4,200円〜
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う巻きや肝焼きなどの一品料理も充実
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日本酒「宮川」あり(グラス・徳利)
公式サイト・レビューリンク
老舗の本領を味わいたければ、築地・宮川本廛へ。変わらぬ味と、変わらぬ心があります。
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