Story
世はまさに物価高の嵐である。電気代が跳ね上がり、ガス代が唸り声を上げ、庶民の財布は空っ風にさらされて軽くなる一方。だが、そんな中でも我輩、どうしても譲れぬ欲がある。それが――鰻である。
「贅沢だ!」と叫ぶは無粋の極み。人が生きるとは即ち、時に贅沢することで己の尊厳を確かめる儀式なのである。特に、令和の世にあっては、新聞もテレビもAIまでもが「節約・節約」と喧しい。だが、鰻を前にして財布の紐を緩めぬ者に、人間の誇りはない――と、どこかの哲人が言ったかどうかは知らぬ。
さて、舞台は東京駅八重洲口。商人どもが行き交い、スーツ姿の勤め人がスマホ片手に浮世を駆け抜けるこの街に、「うな富士 八重洲店」という一軒がある。名古屋の本店は名うての名店と聞くが、東京の分店とて侮れぬ。暖簾分けの暖簾が、ここ東京でも立派に翻っておるのだ。
暖簾をくぐると、店内は鰻の香りと山椒の気配に満ちている。席に着くや否や、「特上ひつまぶし」を注文する。隣の男は「並で」と言っていたが、我輩にはそれが「我慢」という名の敗北に見えてならなかった。
ほどなくして、やってきたのは黒塗りの器に盛られた金色の夢。照り焼きの艶、刻み海苔の余韻、そして蒸篭で炊かれた艶やかな飯。これを四等分し、まずはそのまま、次に薬味を添え、さらに出汁を注いで茶漬けに――まさに一皿で三国志が演じられるかのようである。が、吾輩はどちらかというと鰻重派だと思った。小刻みの鰻よりガブリと食べる鰻が良い。
店の外に出ると、八重洲の街は相も変わらず喧噪に満ちていた。投資と株価と円安と、国会議員の記憶喪失会見と、AIが書いた恋愛小説の出版と――何やら世の中は複雑怪奇である。それでも、我輩の腹にはひつまぶしが残っている。そのことが、今の世を生きる希望になるのだから、食とは恐ろしい。
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