Story
「尾花」なるもの、これはただの鰻屋ではない。いや、鰻屋の皮を被った一種の宗教施設と申しても差し支えあるまい。何しろ、南千住という江戸の風を今に残す地にて、朝から並ぶ者たちの姿はもはや信徒のそれである。季節は梅雨時、空気に湿り気を覚えるころ、我は鰻という名の救済を求め、静かなる決意のもと店の前に立つ。10時前に到着し、先客三名。この数字、さながら仏教の「三宝」に通ずる縁起の良さ。つまり我は「四人目の悟りし者」である。
以前など、真夏の蒸し暑さと人の熱気とで、並んでいるうちに悟りどころか煩悩の渦に巻き込まれたものだが、今日は違う。冷んやりとした空気の中、列は穏やかに伸びていく。静かなる行列に、マスク越しの会話もなく、皆ひたすらに心を「うな重」に向ける様など、まさに現代の無言座禅。ああ、これぞ令和の美徳ではなかろうか。国会の茶番劇などより、よほど緊張感に満ちている。
11時を回ると、音もなくシャッターが上がり、まるで神殿の門が開かれるごとく、奥から椅子が現れる。その時の静かな感動、これは小泉八雲が怪談を書くにも及ばぬほどである。しばしの座の後、ついに中へと導かれる。あらかじめ注文を受けているため、席に着くとすぐさま料理の到来を期待できるのも、「尾花教団」の合理主義である。
さて、今回の副菜には「鰻巻き」を所望。これがまた、江戸っ子もびっくりの風格。黄なる衣に包まれし鰻、しかも短冊ではなく、砕かれて玉子と見事に渾然一体を成している。食すれば舌にまとわりつき、甘くもなく、かといって辛すぎず、絶妙な味加減に、我思わず「料理とは斯くも芸術たり得るか」と、柄にもなく心震わす。
日本酒を一献傾けていると、いよいよ本丸、うな重が登場。蓋を開けた瞬間、ほわりと立ち昇る香煙に、我の五感が総立ちとなる。身はとろけるように柔らかく、表面は軽く焼き目を残し、まさに柔と剛の融合。これをもって「調和の哲学」と呼ばずして何としよう。世間では物価高騰が嘆かれておるが、ここに来ては「高くても納得できるものもある」と、我が財布も納得顔である。
重箱の半分を食したところで、山椒を少々。香りが鼻腔を突き抜け、目の奥がすうっと冴える。今や一粒の山椒が、脳内インフレすら鎮める効き目を持つ時代。世の中、政策より山椒ではなかろうか。
さて本日の鰻は、九州産とのこと。詳細は語られぬも、その身の艶やかさから察するに、育ちの良さが窺える。政治家の口調とは真逆に、口に含んだ瞬間すべてを語る。まさに「沈黙は金」である。食し終えて、ああ、次はもう少し軽めでも良いかもしれぬ、などと贅沢な反省をしながら、店をあとにする。
南千住から三ノ輪橋方面へと歩き、途中、立花屋にて織部饅頭を土産に購入。これがまた、控えめな価格にして上品な甘味。うなぎで昂ぶった五臓六腑に、ふんわりと落ち着きをもたらす一品であった。
都電に揺られながら、車窓の風景をぼんやり眺める。人間、腹が満たされると心も穏やかになるものだ。少なくとも、霞が関の会議室にも「尾花」のうな重が届けば、もう少し議論も建設的になるのではなかろうか。
――鰻は、ただの食ではない。修行であり、哲学であり、そして小さな贅沢である。次なる巡礼の地に思いを馳せつつ、今宵は早めに布団へと入るとしよう。
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