Story
五月晴れというやつは実にいけません。まことに清々しく、空気は澄みわたり、心も洗われ……ぬるま湯のような浮ついた決心を人にさせる。かくして私もその魔力にやられ、午前十時の空を見上げては、「天然の鰻が食いたい」と、突拍子もない欲求に襲われたのである。
思えば、天然とは「人の手が加わらぬ尊さ」である。最近の世の中、なにからなにまで“生成AI”とか“自動化”だとか、便利なようでいて味気ない。どこを見渡しても人工知能、人工甘味料、人工皮革。まるで「自然」という言葉が失われた文明のようだ。そんな現代への小さな抵抗として、私は「天然」を欲したのだ――と、それらしく言えば聞こえは良いが、要するにただの食欲である。
天然といえば野田岩、野田岩といえば飯倉である。そこで私は、あの有名な飯倉坂を、まるで徳川時代の旅人よろしく、登ることと相成った。だが、今の東京にある坂というのは、なにゆえこうも中腹にスターバックスなどがあるのか。歴史の情緒を台無しにするでない。道に迷った拍子に、気づけば開店時間をとうに過ぎており、急ぎ足で老舗の暖簾をくぐると、既に店内は一巡目の鰻客で賑わっていた。
さて、案の定、私は本館には通されず、別館へと案内された。「風流人はこちらで」とでも言いたげな静謐な空間に、ちょいとばかり癇癪がこみ上げる。いや、別に風流を否定するわけではないが、風流とは時に“隔離”と紙一重である。
着物姿の店員が音もなく現れ、「天然、ございますか?」と尋ねると、ひと呼吸置いて「ただ今、準備中でございます」と来た。なるほど、“天然”とは“天の然り”であって、人の腹時計には従わぬものらしい。準備中とはすなわち「今日のあなたには縁がない」というやんわりとした拒絶だと、私は受け取った。
仕方がないので、煮こごりと熱燗を所望し、鰻重は“桂”にしてみた。これは財政状況に対する一種の挑戦である。「山吹で手を打つか、桂まで登るか、それが問題だ」と、シェイクスピア風に悩んだ末の選択だ。財布の中身もまた、天然には程遠い人工的な薄さであったが。
やがて、煮こごりが運ばれた。その琥珀色の輝きはまるで夕焼けのようであり、口に含めば鰻の旨味が静かに広がる。ぬる燗で喉を湿らせるたびに、世間のゴタゴタ――たとえば電気代の値上げや、国会での答弁の空虚さなど――がどうでもよく思えてくるのだから、酒と肴とはありがたい。
いよいよ主役の鰻重が現れる。蓋を開けると、そこには細身ながら気品のある鰻が、まるで軍隊のように整然と並んでいる。まずは山椒を使わずに一口。醤油の香ばしさと鰻の油が、米粒ひとつひとつを黄金に変える。ほどよい甘さと塩気の調和は、文明開化の味である。
半分ほど食べ進めたところで、私は重の向きを斜めにし、山椒をひと振りする。これぞ「江戸の流儀」。この所作を行うことで、鰻がただの食物から一つの芸事へと昇華するのだ。
肝吸いもまた見事である。まるで仏教画に描かれた霊魂のように、肝がそっと浮かんでいる。これを見て「魂の浮遊」とはこういうことか、とひとり合点する。
食後に茶をすすりながら、私はふと、東京の青空を見上げた。そこに「鯉のぼり」ならぬ「鰻のぼり」が泳いでいたら面白かろう、と妄想する。あの政治家たちの支持率のように、時に登り、時に墜ちる、浮世の鰻である。
麻布台ヒルズを横目に見ながら、私は改めて思った。天然の鰻は捕れずとも、天然の時間は味わえたではないか。これぞ大人の贅沢、文明人の一日である。
店舗案内
江戸時代より続く、うなぎの名店「野田岩(のだいわ)」。その本店があるのは、港区飯倉。麻布台の坂道を登った先に、静かに佇む数寄屋造りの建物が、訪れる者を迎えます。
創業は文化文政の頃。200年以上にわたり、一子相伝の技法と職人の勘によって、うなぎという素材に真摯に向き合ってきた老舗中の老舗です。店内は凛とした和の空気に包まれ、まるで時間がゆっくりと流れているかのよう。接客もまた、落ち着きと丁寧さがにじみ出ており、格式を保ちつつも温もりを感じさせます。
名物の鰻重は、関東風の「蒸し」と「焼き」の絶妙なバランスにより、ふっくらと柔らかく、しかも香ばしい仕上がり。秘伝のタレは代々受け継がれ、甘さ控えめで品格ある味わい。米との相性も抜群で、まさに“江戸の粋”を体現した逸品です。
特に天然うなぎ(季節・入荷次第)や、酒の肴として名高い「鰻の煮こごり」も人気。格式を感じさせながらも、どこか懐かしさを感じさせる味わいに、思わず舌を巻くことでしょう。
麻布台ヒルズからも徒歩圏。東京観光の合間に、あるいは特別な人との食事に、歴史と風格を備えた「野田岩 飯倉本店」で、至福のひとときを味わってみてはいかがでしょうか。
野田岩 飯倉本店
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所在地:東京都港区東麻布1-5-4
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アクセス:都営大江戸線「赤羽橋駅」より徒歩約5分
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営業時間:11:00~13:30/17:00~20:00(※日・祝定休、要確認)
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電話番号:03-3583-7852
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座席:本館・別館あり(個室あり)
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予約:可(特に天然うなぎは要事前確認)
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