Story
山手線の車窓より、梅雨に煙る東京の街を眺めていたら、突如として眼前に現れた都電の黄色い車体。あれは文明開化の置き土産、あるいは老舗の羊羹の包み紙のような風情である。車輪がガタンと揺れたかと思えば、そこは大塚駅。車中にて缶ビールの誘惑と闘いながら、わたくしの胃袋はすでに「宮川」の暖簾をくぐっていた。
大塚の街というのは、まことに不思議な色をしておる。古き良き風情を残すかと思えば、突如カフェラテ片手に無表情の若者がスマホをつついていたりする。三味線の音は消え、今は電子決済の「ピッ」という音が主旋律。時代の移ろいとはかくも皮肉なものか。
駅を出たとたん、天のいたずらかと思われるほどの土砂降り。傘を持たぬわたくしは「運命」を感じながら、駅前の屋根の下で屯するサラリーマンと共に雨宿りをいたした。最近では「雨にも負けず、電気代にも負けぬ」と言いたくなる物価高であるが、それでも鰻を喰うという意思だけは誰にも奪わせぬ所存である。
さて、いざ訪れた「宮川 大塚店」。この店の暖簾をくぐるときは、まるで旧友の家に赴くような、あるいは時代劇の中にすっと入り込むような妙な安心感がある。共水うなぎ——名を聞くだけで、どこか品の良い桜色の絹を想起させるその存在は、まさに鰻界の貴族。庶民のわたくしなど、せいぜい「名前だけは存じております」という程度であったが、今日ばかりは懐の紐を解いて特上を所望いたした。
テーブルには小さなカンパニラの花。静かに咲くその花に、都会の喧騒など吹き飛ばされる。注文後、出てきた冷たいビールは、あたかも禅僧が無言で差し出した涼やかな教えのようであり、思わず「ありがたや」と呟きたくなるほど。
そして、運ばれてきた鰻重の蓋をそっと開けた瞬間、思わず鼻がひくついた。あれこそは芸術の香りである。一口食らえば、ふわりとほどける身、そこに染み入る絶妙のタレ。まさに、「江戸の味ここにあり」と叫びたくなる。さらに本わさびを擦って添えると、舌の上で舞う風雅な戯れ。その清々しさ、まるで議員が裏金を自主返納したふりをして、翌週また別名義で受け取るが如く——いや、これは少々過ぎた皮肉か。
山椒をふりかけてみると、まるで老舗の味に若干の時代の風を加えたような印象。人間関係においても、長年の夫婦に小さな刺激が必要なように、料理もまた然り。実に含蓄深い一椀である。
それにしても、近頃の若者が「タイパ」などと言って、食事を早送りする風潮には困ったものだ。あれでは食も文化も、まるでYouTubeの広告のようにスキップされるだけである。ここ「宮川」には、そのような軽佻浮薄とは無縁の、じっくりと時を味わう心がある。これを「文化の根」でなくて、何と呼ぼうか。
腹を満たして表へ出ると、雨は上がり、路面に都電の線路が光っていた。遠くからカタンコトンと響く音が、まるで「また来なされ」と囁いているようである。
次は案件の終わりでなく、ただ「旨い鰻が食いたい」——それだけの理由で来ても良い。いや、それが最上の理由なのかもしれぬ。
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